恋が浦
佐渡は、越後からみれば波の上にある。
司馬遼太郎の長編小説「胡蝶の夢」(1979年 新潮社)は、この書き出しで始まります。幕末から明治にかけて、封建社会の中で近代医学の導入に情熱を燃やした若者たちの群像劇。その中でひときわ異彩を放つのが、佐渡出身の島倉伊之助(1840-1879 後の司馬凌海)です。
驚異的な記憶力の持ち主だった伊之助は、祖父から漢学の素養を授かり、わずか11歳で江戸へ出て幕医松本良順に弟子入りします。そして良順の生家、千葉の順天堂で学び、良順に従い長崎でポンペに師事。ここは当時の日本において医学の最先端でしたが、伊之助は医学ではなく語学に才能を発揮し、オランダ語、ドイツ語、中国語、英語、ロシア語を次々とマスターしていきました。後に日本初のドイツ語辞書を編纂し、医学薬学に関する海外の知識を紹介する著書を書いた伊之助は、新しい知識を渇望していた当時の日本にとって、欠くことのできない人物でした。
新町では旅立つ人があると、その朝、暗いうちから見送りの親類縁者や近所のひとびとがこの野にあつまり、重箱に煮しめなどを詰め、酒などを持ち寄り、別れを惜しむ。いかにも詩歌の名所らしく、心優しい風習といっていい。
司馬遼太郎は、伊之助が旅立つ場面をこのように書いています。場所は「恋が浦」。胡蝶の夢第一章のタイトルにもなっているこの地は、司馬凌海生家から歩いて5分ほど、真野川の河口の浜を指します。伊之助は、恋が浦で別れの宴を終えると、小木の宿根木港から越後の寺泊へ。そして江戸へ向かいました。
佐渡は幕府が金山を開発し、それを資金源としたため江戸時代を通じて一国天領でした。数年で交代する佐渡奉行(幕府の官僚職)が権力の頂点で、殿様はおらず武士階級が少数だったため、島には他と比べて自尊自立、自由な気風があったといわれています。また、江戸時代の海上交通は太平洋側ではなく日本海側が幹線となっていて、佐渡には各国からの船が出入りしていました。司馬遼太郎が「越後ではなく京の隣」と評したように、佐渡には京都はもちろん西日本の文化が多く入っています。
真野は国分寺もあり、佐渡では最も古くから開かれた町。江戸時代は奉行所のある相川と港のある小木を繋ぐ街道の中継地点でした。塗り瓦の家並が続く真野の町並みは高台から眺めてよし。酒蔵、史跡などを巡ってもよし。
