人々

かつて配流(島流し)の地であった佐渡には、多くの著名な政治犯や思想犯が流されました。また、ここは多くの思想家や芸術家を生みだしてきた土地でもあります。こういった人々によって佐渡の文化の礎が築かれてきました。このページでは歴史上の人物から、現代の佐渡に生きる人々までご紹介いたします。

佐渡の流人たち

佐渡の流人第一号は、養老6年(722)乗興を指斥する事件に座して配流された万葉の歌人・穂積朝臣老(ほずみのあそみおゆ)といわれています。それ以降多くの人々が佐渡に流されましたが、時の政争に敗れた政治犯や思想犯といった人たちがほとんどでした。中には許されて都に帰ることの出来た人もいましたが、多くが佐渡で生涯を閉じたといわれています。そのほとんどが当時の貴族や文化人だっただけに、さまざまな都ぶりを佐渡に伝えたと思われ、今に伝わる多くの芸能の下地はかれら流人たちによって作られたものとも考えられます。

真禅寺(佐渡市大久保)

文覚上人(もんがくしょうにん)

俗名を遠藤盛遠といい、かつては北面の武士でした。源渡の妻袈裟御前に恋慕し、誤って殺害したことを悔いて出家した話は有名です。鎌倉幕府に対抗した陰謀に連座したとして正治元年(1199)三月に配流されたと言われていますが、その後佐渡で没したとも、また対馬に配流されたとも言われますが定かではありません。大久保の真禅寺が文覚開基と伝えられており、腰掛石も残されています。

真野御陵(佐渡市真野)

順徳上皇(じゅんとくじょうこう)

鎌倉幕府転覆に失敗した承久の変(1221)で24歳の若さで配流され在島22年の後、都に帰ることなく46歳で崩御されました。真野御陵や黒木御所など、多くの遺跡や伝説などが残されています。

本行寺(佐渡市松ヶ崎)

日蓮聖人(にちれんしょうにん)

「立正安国論」が鎌倉幕府の怒りに触れ、文永8年(1271)に配流されました。塚原の三昧堂(根本寺)で「開目抄」を著わして自らの立場を明らかにし、一谷入道邸(妙照寺)に移されてからは法華経思想を具体化した十界曼荼羅を図顕。「観心本尊抄」を著して日蓮の主義・思想を結実させました。この影には阿仏房・千日尼夫妻(妙宣寺)、国府入道、是日尼夫妻(世尊寺)の外護の力があったからといわれています。在島は2年5ヶ月。文永11年(1274)赦免されて鎌倉へ帰りました。着岸した松ヶ崎・本行寺から離島出船の渋手、真浦の霊跡までゆかりの由緒・遺跡・伝説が数多く残っています。

禅長寺(佐渡市赤泊)

京極為兼(きょうごくためかね)

鎌倉後期の政治家でもあり、歌人でもあった為兼はその積極的・革命的な生き方が皇位継承をめぐる南朝と北朝の争いに大きく影響したとして、幕府の手によって配流されました。為兼45歳、永仁6年(1298)のことです。八幡宮の小堂に配され、日々京都召還への神明祈誓をこめて、あけくれ歌を詠んでいました。その甲斐あってか、5年後の嘉元元年(1303)に許され帰京。後に伏見上皇の院宣で「玉葉和歌集」を撰進しました。

妙宣寺(佐渡市阿仏坊)

日野資朝(ひのすけとも)

後醍醐帝の北條討伐、いわゆる「正中の変」(1324)にその責任を一身に背負って配流され、7年間幽閉された後処刑されました。墓は五重塔のある妙宣寺にあります。その子、阿新丸が13歳で佐渡に渡り、父の敵の本間三郎を討ち取った話は「太平記」で、また能の「檀風」で有名です。その敵討ちの舞台となった本間館跡が阿仏坊の妙宣寺付近で、追っ手を逃れた時に隠れたと伝えられる阿新丸の隠れ松の跡が今も残っています。また、阿新丸を守って島からの脱出をはかった山伏大膳坊を祭神として祭ったのが竹田にある大膳神社です。

腰掛石(佐渡市泉、正法寺)

世阿弥(ぜあみ)

「花伝書」で知られる能楽の芸術的大成者。将軍足利義教のゆえなき怒りのため佐渡に流されたのが永享6年(1434)世阿弥72歳の時でした。許されて都へ帰ったかどうかは不明ですが、佐渡での暮らしぶりを「金島書」にまとめています。謫居の跡が最初の配所である万福寺から正法寺に移され、その境内には腰掛石が今も残っています。

観音寺(佐渡市鹿伏)

小倉実起(おぐらさねおき)

儒学の秦斗と仰がれるほど学殖豊かな人で、位も大納言でしたが、自分の娘が天皇の第一子をもうけながら皇位に就けなかったことに逆らい、長男公連(きんつら)、次男季伴(すえとも)と共に天和元年(1681)配流。大納言であり学者でもある父実起、歌人の公連の在島は佐渡の文芸に大いに寄与したと言われています。配流から2年後、実起、公連ともに没。季伴は許されて京に帰りました。親子2人の墓が相川鹿伏の観音寺に残っています。

佐渡人物(学者・芸術家・思想家・ほか)

柴田収蔵(しばた・しゅうぞう)
(1820〜1859)

地理学者。文政3年小木地区宿根木生まれ。天保10年(1839)19歳で江戸に出て蘭学を学びましたが、ペリー来航の1年前に貧窮の中でマテオ・リッチの卵型万国図を改定した世界地図「新訂坤興略全図」を出版。その中にはパリやロンドンと並んでシュクネギも載っています。こうした努力が認められ、安政2年(1855)、幕府蕃所調所絵図役となりますが、3年後に40歳で亡くなりました。宿根木の称光寺に墓、佐渡博物館に世界図、小木の海運資料館に資料があります。

司馬凌海(しば・りょうかい)
(1839〜1879)

医学者・語学者。天保10年(1839)真野地区生まれ。12歳の時、江戸で医学を学び、19歳で師の松本良順と長崎でポンペに学びました。通ぜざる外国語なしといわれるほどの語学の天才で、日本最初の独和辞典「和訳独逸辞典」などを出版しますが40歳の若さでこの世を去りました。司馬遼太郎の「胡蝶の夢」にその奇才ぶりが見事に描かれています。

土田麦僊(つちだ・ばくせん)
(1887〜1936)

日本画家。明治20年(1887)新穂地区生まれ。16歳で京都の智積院の小僧となりますが、ここで仏門を出て日本画の鈴木松年に、後に竹内栖鳳に師事し、苦労しながら絵を学びました。21歳の時に文展に入賞。以後近代洋画の影響濃い作品で画壇に重きをなし、帝国美術院の会員となります。評論家の土田杏村は実弟。新穂小学校にこの兄弟の碑が建ち、佐渡博物館に多くのデッサンが保管されています。

土田杏村(つちだ・きょうそん)
(1891〜1934)

評論家・哲学者。明治24年(1891)に麦僊の弟として生まれました。小学校4年の時に新潟県小学校資格検定試験に全科目合格。新潟師範学校から東京高等師範学校・京都帝国大学・同大学院に進みました。師範学校時代から新聞に評論を発表するなど、早くから評論活動をしていましたが、33歳の時に喉頭結核に罹り43歳で亡くなりました。執筆した著書は哲学・宗教・教育・歴史・文学など多岐にわたり、実に60冊にも及びます。

北一輝(きた・いっき)
(1883〜1937)

思想家。明治16年(1883)両津地区生まれ。24歳の時に著した「国体論及び純正社会主義」で有名になりますが、発売禁止。大正9年に書いた「日本改造法案大綱」が2・26事件の青年将校たちに深い影響を与えたとして、軍法会議で死刑に処せられました。54歳の時のことです。両津地区の勝広寺に墓、若宮八幡神社に弟の政治家・●吉とともに記念碑が建っています。(●は、日ヘンに令)

林不忘(はやし・ふぼう)
(1900〜1935)

小説家。明治33年(1900)赤泊地区生まれ。本名を長谷川海太郎といい、奉行所金座役の古い家柄に生まれました。時代小説「丹下左膳」は彼の作品としてあまりにも有名ですが、このほかにも谷譲次の名前でメリケンジャップもの、牧逸馬の名前でミステリーや家庭小説を執筆しています。一人三役の超人的活躍をしましたが、35歳の若さで急死しました。

青野季吉(あおの・すえきち)
(1890〜1961)

文芸評論家。明治23年(1890)佐和田地区生まれ。新潮に書いた「心霊の滅亡」で文壇デビューし、プロレタリア文学運動の指導的理論家として活躍しました。戦後、文芸家協会会長に就任。文芸評論家として初めての芸術院会員となりました。沢根五十里の励風館の脇に、自筆の「ペンの碑」が建っています。

佐々木象堂(ささき・しょうどう)
(1882〜1961)

蝋型鋳金作家。明治15年(1882)佐和田地区生まれ。初め画家を志していましたが、極度の近眼のため画家の道をあきらめ、蝋型鋳金作家の初代宮田藍堂に師事しました。蝋型鋳金は一つの鋳型から一つの鋳物を作る古くからの伝統工芸。晩年、円空仏を造形美の極地とした彼の作品は、美しさの中にも人間味溢れるものです。昭和35年(1960)人間国宝、現御所の屋根飾り「瑞鳥」が知られています。真野の佐渡歴史伝説館に記念館があります。

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