1. 佐渡概要
  2. 歴史

歴史

遺跡の出土品から、佐渡には、1万年前から人が住んでいたことがわかっており、日本最古の歴史書である「古事記」の国生み神話には大八島の7番目として登場し、「日本書紀」の同じ神話には「億岐州」と「佐度州」が双子として5番目に登場しています。

奈良時代にすでに一国とされ、流刑地に定められた佐渡は、722年に皇室批判を行った万葉歌人の穂積朝臣老を始めとして、1221年に承久の乱で敗れた順徳上皇、1271年に鎌倉幕府や他教を批判した日蓮聖人、1434年に時の将軍の怒りを買った能楽の大成者である世阿弥など、中世までは政争に敗れた貴族や知識人が流されてきました。

平安時代後期の「今昔物語集」にも記録されているとおり、昔から金が採れる島として知られていた佐渡は、江戸時代に入ると、その有望性を見出した徳川家康が幕府直轄(天領)として本格的に金銀山開発を進め、採掘された金や銀が江戸幕府の財政を支えました。

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    佐渡金山「道遊の割戸」

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    佐渡奉行所跡

鉱山の繁栄によって日本各地から山師、金穿り、大工、測量技術者、商人、漁業者などが集まり人口が急増し食糧需要が増えたため、鉱山の技術を応用して海岸段丘上に新田開発が行われました。また、鉱山で使用する炭・木材等の生産資材確保のため、山間部の森林も御林(官有林)として奉行所による厳しい管理が行われました。

このように、森林や農地が大切にされた佐渡は、国際保護鳥に指定されているトキが日本で最後まで生息した場所でもあります。トキは江戸時代末期まではどこにでもいる鳥でしたが、明治時代以降の乱獲や農薬の多用等による生息環境の悪化で絶滅寸前にまで追い込まれました。日本のトキは2003年に絶滅してしまいましたが、一方で1999年に中国から贈られたトキの人工繁殖が始まり、この年に最初のヒナが誕生しました。2000年以降も順調にヒナが育ち、また、関係者が一丸となってトキが生息できる環境の整備を進めたことにより、2008年に10羽のトキを放鳥してからは、飼育下で増やしたトキを佐渡の空に戻す野生復帰の取組みが進められています。

流刑となった歴史上の人物

順徳上皇

第84代の天皇に即位された順徳上皇は、父である後鳥羽上皇の院政下では直接政治を執ることはなく、有職故実の研究や和歌などに傾倒したといわれています。後鳥羽上皇による鎌倉幕府の打倒計画に参画し、承久の乱を引き起こしたものの、鎌倉幕府の執権であった北条義時を中心とする幕府軍によって鎮圧され、乱の首謀者として1221年に佐渡に流されました。在島22年、都へ帰ることは許されず、46歳で崩御されました。行在所であった黒木御所や火葬塚である真野御陵など、多くの遺跡や伝説などが残されています。

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    真野御陵

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    黒木御所跡

日蓮聖人

日蓮宗の宗祖である日蓮聖人は、地震や飢饉、疫病などの災害が相次いだことから鎌倉幕府の最高権力者であった北条時頼に「立正安国論」という1冊の書を提出しています。この書の中で、相次ぐ災害の原因は、幕府や民衆が邪教を信仰することにあるとし、法華経を信じなければ災いが起こると説き、鎌倉幕府や他の宗教を批判したとして1271年に佐渡に流されました。日蓮上人は塚原の三昧堂という荒れ果てた墓地の小堂に配所され、翌年の4月に市野沢に移されるまで半年間住んでいました。この地で他宗の僧たちと「塚原問答」を戦わせ、「開目抄」を著し、市野沢に移されてからは「観心本尊抄」を著し、初めて日蓮宗の本尊とされる法華曼荼羅を顕されたといわれています。在島3年の後、赦免となり鎌倉へ帰りました。島内には日蓮聖人ゆかりの遺跡や伝説などが数多く残されています。

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    根本寺

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    妙照寺

世阿弥

室町幕府の3代将軍足利義満の寵愛を受け、能楽を大成させた世阿弥は、6代将軍足利義教の怒りにふれ、1434年に佐渡に流されました。佐渡の多田に着いた世阿弥は、長谷寺を経て新保の万福寺に配所されましたが、近くで合戦が起きたため、泉の正法寺に移されました。在島中に世阿弥が著した小謡集「金島書」に書かれている元号から、1436年までは佐渡に滞在していたことが分かっています。その後の消息については不明ですが、嘉吉の乱により将軍が暗殺されると配流も解かれ、娘夫婦の元に身を寄せたとも伝えられています。

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    正法寺

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    万福寺跡